日曜の夜、手帳を開いたところで手が止まる
今週こそ、と書いた行が、先週の手帳にもあります。同じ字で、同じことが書いてある。
やろうと思っていた。時間もまったく無かったわけではない。それなのに、また週が終わってしまった。手帳を閉じるとき、みぞおちのあたりが少し重くなって、月曜の朝が遠く感じられる。
「できてない」と自分を責めても、人は急にできるようになるわけではありません。にんげんって、そんなものです。では、どうすれば動けるようになるのでしょうか。ヒントは、意外にもシンプルなところにあります。
フタをしたまま、漬け物石を背負って走っている
原因は、たいてい一つに絞られます。奥底にある「本当の気持ち」を、まだ汲み取れていないからです。
たとえるなら、臭いものにフタをしたまま、重い漬け物石を背負って全速力で走るような状態です。走れないのは脚のせいではありません。背負っているものの重さのほうです。
しかも、フタを開ける作業は、走りながらではできません。もしそれが簡単にできていたなら、この世はとっくに、心の楽園になっていたでしょう。できないから、みんな困っているのです。動けない週が続いているのは、怠けているからではなく、石を背負ったまま走り続けてきたからだ、と見ることもできます。
止めていたのは、賢い防衛かもしれません
そんなとき、スラトレ®の出番です。こういう場合、少し心理学の技が役立ちます。スラトレ®では、その、できていない、の奥にある「本当の気持ち」をとても大切にします。「無理やり引き出すでもなく、茶化すでもなく、優しく丁寧に光をあてるような感覚」です。
すると、こんなことが見つかったりします。がんばりすぎて、実は疲れていたこと。誰かの期待に応えようと無理をしていたこと。本当は、怖かったこと。そして、だれにも言えなかったこと。
ここで、はっきり申し上げます。行動できないのは、その人がダメだからではありません。むしろ、その人の中の「賢い防衛」や「丁寧なやさしさ」が、これ以上無理を続けないよう、止めてくれていたのかもしれないのです。
書くと、気持ちが見える形になります
スラトレ®には、「ノート術」の書き方に明確な手順があります。それを活用し、「書いていく」という単純な作業をしていくだけで、紐解ける仕組みになっています。頭の中で考え続けるのではなく、書く。ノートを書き進めると自然と、「本当は、どんな気持ちを感じていた?」が紙の上に見えてきます。
頭の中に置いたままだと、気持ちは重さだけを伝えてきます。紙の上に出すと、形と大きさが分かる。石を下ろす前に、まず何が入っていたのかを見る、という順番です。
その気持ちが見えたとき、自分を責め続けていた人の目から、自然と涙があふれることもあります。悲しみの涙ではなく、「もう大丈夫」と感じられた安心の涙であり、次の一歩が自然と始まっていく、喜びの涙です(感じ方には個人差があり、変化を保証するものではありません)。
そこから先の月曜は、少し静かになります。手帳の「今週こそ」の行が、やりたいことの名前に書き換わっているからです。やらねば、で埋めていた欄が空くと、そこに入れたいものが自分の中から出てきます。石を背負って走っていたときの脚力は、下ろしたあとも手元に残ります。その脚力を、今度は行きたい方向へ使えます。