詰められた三十分後に、後輩へ同じ言い方をしている
朝の申し送りで、上司から強い調子で指摘を受けます。言い返す場面ではないので、はい、とだけ答えて自分の持ち場へ戻る。
その三十分後、確認漏れをした後輩に声をかけるとき、自分の口から出てきた言い方が、朝に言われたものとほとんど同じだったことに気づく。言い終わったあとに胃のあたりが冷たくなって、その日の残りがずっと重くなる。
これを、自分の性格の問題として片づけると、行き先がなくなります。ここで起きているのは、もう少し形のはっきりしたことです。
バケツリレーの、水が渡されている
上から渡された水は、持っているあいだずっと重いままです。下ろす場所がないと、次の人へ渡すことになります。
これが、「無意識のネガティブの再演」「恐怖の連鎖」と呼んでいる心のしくみです。一言で言うと、「恐怖政治で上司に圧をかけられたから、自分も同僚や部下に同じように恐怖の圧をかける。」という形になります。
現場の光景で言えばこうです。業務量は年々増えるのに、人手は常にギリギリ。少しのミスで上司から強く詰められる。そして「自分が新人の頃はもっと厳しかった」と、下の世代にも同じように圧をかけてしまう。
ここで渡さずに持ち続けようとする方もいます。列が止まるので、その方のところに水が溜まります。渡された水を下へ流さずに抱えて参ってしまうのは、いちばん真面目に列に立っていた方です。性格の弱さの話ではありません。
水の出どころは、経営の側にあります
なぜ医療現場がこの構造にはまりやすいのか。ここには構造的な事情があります。
日本全国の医療施設の7割以上が赤字運営だと言われています。そして人件費が経費の大半を占めるため、まず削られるのは人になります。結果として、常に少ない人数で過剰な業務をこなす現場ができあがります。
つまり、経営側の焦りが、現場にそのまま圧力として降りかかる。列のいちばん上流にあるのは、数字です。
これは医療や介護に限った話でもありません。ホテルスタッフ、飲食店、教育現場など、人と直接関わるすべての職業で、同じような構造が起きています。理由は同じく人件費です。人を削ることが最も手っ取り早い対策とされやすく、結果的に現場に無理が強いられます。
最も深刻なのは、麻痺という段階です
そして最も深刻なのは、この状態があまりに当たり前になりすぎて、「おかしい」と思う感覚すら麻痺してしまうことです。
麻痺した状態は、いずれ心の不調や身体症状として現れます。毎朝、職場に行こうとすると吐き気がする。食欲がわかない、夜中に目が覚める。ミスを極端に恐れて、緊張状態が続いている。常に頭痛や肩こり、腰痛がある。こうした状態が続いているときは、医療機関への相談が先に来ます。
ここで一つ、押さえておきたいことがあります。内面の声を丁寧に棚卸しして、心と体をどれだけ整えたとしても、元の環境に毎日戻るのであれば、水はまた渡されてきます。出どころが職場の側にある以上、内側だけを整えても、入ってくる量は変わりません。
まずは、自分を守ること。それは逃げではなく、成熟した選択です。心と体を壊してまで社会に貢献する形にしなくても、自分に合った方法で、自分を大切にしながら、まるで自分のように誰かを大切にする社会貢献を続けることはできます。
同じ職場に立っていても、朝の吐き気の前に、今日どこまでやるかを自分で決める時間が入ります。渡される水の量は変えられなくても、受け取る器は自分で選べます。恐怖で動いていた足が、自分の選択で前に出ます。連鎖の外に出る入口は、そこに開きます。